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AYAKO ISHITSUKA

『ペルー日系人の20世紀  100の人生100の肖像』
  柳田利夫(文) 義 井豊(写真) 芙蓉書房出版 1999年9月


石塚 彩子 pp. 80 - 81

 石塚彩子   いしづか あやこ  

 昭和7年(1932) 7月23日生、 京都市出身。
 洋画家伊庭伝次郎 ・ 喜代子の長女として生まれる。1954年、夫とともに太陽の黒点観測のためワンカイヨに入る。 1988年末、テロで天文台を破壊されリマに下りる。66歳

「私は何も趣味もありませんねえ。 何もできませんし」と言う彩子だが、着ているしゃれたセーターは自分で編んだものだという。

 彩子は、昭和7年 (1932) 7月23日、京都市左京区北白川で、洋画家伊庭伝次郎を父に生まれている。戦争を挟み、新しい教育制度のなかで、京都府立鴨沂高等学校と名前を変えたかっての女学校を卒業し、昭和29年(1954)、22歳で当時京都大学理学部の石塚睦と結婚した。

昭和32年(1957)、睦は太陽の黒点観測所設立のため、2、3年の予定で南米のペルーへ向かうことになった。1歳の長男を連れた睦・彩子夫婦は、貨物船チリ号に乗り込み、1ヶ月半の航海の末、リマの外港、カリャオに到着している。

「カリャオに着いて、どんな気持ちだったかですか?もう、みんな忘れてしまいましたよ。その日一日だけリマに泊まって、翌日には汽車に乗ってすぐにワンカイヨに向かいましたからね。」

 天文台は、ワンカイヨの中心から16キロほど山に入ったウアイヨに建設された。彩子たちは町から離れ、天文台のそばに住むことになった。

「ワンカイヨの町には、当時まだたくさんの日本人の方が住んでいらっしゃって、言葉のできない私のために買い物を手伝ってくださいました。本当に、何から何まで親切にしていただきましたよ。土曜日には、わざわざ家まで迎えに来てくださって、町につれていってくれました。御馳走してくれて、日曜日の夜に、また家まで送ってくれました。」

 彩子が、一番心配したのは、町から離れて生活して、子供たちが病気になったらということだった。しかし、そんな時にも、ワンカイヨの人たちが病院まで一緒について来てくれ、大きな問題なく生活して行くことができたという。

 子供たちの教育もまた、石塚夫妻にとって大きな問題だった。日本生まれの長男は、3年生まで近くの村の学校に通っていたが、彩子がはじめての一時帰国をした昭和40年(1965) に日本に連れて帰り、親の家に 預かってもらうことになった。その後長男は、日本で大学を卒業しそのまま日本で生活を続けているという。次男と長女は、中学までワンカイヨの町まで通学させ、その後リマの大学を卒業し、すでにそれぞれの道を歩みはじめている。

 センデロ・ルミノソを中心とするテロリスト集団が猛威を振るうようになった1980年代、石塚夫妻の天文台も何度も嫌がらせを受けるようになった。天文台が爆破されるという事件も起こり、脅迫状さえ届いていたという。1988年知人を見送りに夫婦でリマに下がっているあいだに、天文台が2度目の攻撃を受け、爆破されほとんど再起不能の状態になってしまった。すべての荷物を家においていた2人は、それから1年半、全く身の回りのものもなくリマでの生活を強いられたのである。

「済んだことは忘れることにしていますのでね、特別な気持ちは別段ありませんね」と彩子は淡々と語るが、その思いは深いに違いない。

 テロの様子を窺いながら、何度か書類などを持ち帰ることはできたが、天文台の活動を続けることはできなかった。それでも、石塚夫妻はペルーを離れる気にはとうていなれなかった。 状況の回復する日をリマでじっと待ち続けていた。

 つい最近、石塚の粘り強い願いが受け入れられ、ペルー文部省から新しい天文台の建設計画にゴーサインが出た。もっとも、ペルー政府の付けた予算はあまりにも少なく、実際に天文台を建設するには ほど遠い額であった。石塚夫妻は揃って日本へ向かう決心をした。新天文台の資金援助を求める行脚を行うためであった。日本を出てから40年が過ぎたが、石塚夫妻の「引退の日」は、まだまだ先のことになりそうである。


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