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プロローグ / はじめての日本人 /パンツを買いたいのですが / ありがとう / 皆既日食ハイライト /カスタモヌをあとにして /帰国 /トルコよふたたび
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トルコはおそらく世界一の親日国だ。貴方もトルコを訪れてみればわかる。いまだかつて私は「日本人だから」というだけで、これほどの歓迎を受けたことはない。 最近では、サッカーのイルハン選手の活躍や、エルトゥールル号遭難事件などが注目をあび、友好的なお国柄が知られつつあるトルコ。(エルトゥールル号遭難事件←超有名フラッシュ。必見!) とくにイラン・イラク戦争下でのトルコ航空機による在イラン日本人の救出劇は、NHKの人気番組:プロジェクトXで取り上げられたり(第135回:撃墜予告 テヘラン発 最終フライトに急げ)、2006年1月に小泉首相がトルコを訪問した際にも話題になったので、ご記憶の方も多いと思う。 ちなみに、2006年の日本天文学会春季年会が行われたのは、エルトゥルール号救済の舞台となった和歌山県。夫にはぜひとも串本町まで足を伸ばし、トルコ記念館や樫野崎灯台などゆかりの地を巡ってきて欲しかったのだが、タイトなスケジュールの合間に遠出するのは困難だったらしい。(学会員の方、どなたか行かれましたカ?)
私の両親が格安ツアーで行ったK国での話。事あるごとに、現地ガイドから「ここがかつて日本人が虐殺を行った場所です」とか「この場所で日本兵が残虐行為を行いました」と、敵意丸出しの本当か嘘かも怪しい残酷話を聞かされ、うんざりして帰ってきたことがある。 C国では、日本人=金づるとでもいわんばかりの扱いで、言葉巧みに粗悪品を売りつけにきたり、現地の行商人にしつこくつきまとわれたりして、振り払うのが大変だったとも。 どうせ旅行をするなら反日政策の国へ行くより、親日国へ行ったほうが数段シアワセというものだろう。
1999年8月、私と夫は20世紀最後の皆既日食を見るためにトルコを訪れた。日食ツアーの性質上、通常は観光客が行かないような土地で観測をすることが多い。おかげで、よそ行きの顔ではないありのままのトルコを体験することができた。 トルコは本当に素晴らしい国だ。トルコのことを、まだよく知らないという方は、ぜひ、この旅行記を読んで欲しい。
1999年トルコ皆既日食ツアー旅行記
プロローグ
思い出の旅は、トラブルで幕をあけた。 1999年8月、私達夫婦は20世紀最後の皆既日食を見るツアーでトルコを訪れていた。ロンドンで飛行機を乗り継ぎ、イスタンブールへ到着。ところが、飛行機から荷物が出てこない。
まぁ、海外ではこうしたトラブルもご愛敬だ。夜も遅かったので手荷物だけを持って宿泊先のホテルへと向かう。ツアー用のバスに乗り込むと、現地のガイドさんが私達を待っていてくれた。 「ようこそトルコへ。みなさん、とんでイスタンブールしましたね。」 ちょっと古いが、日本語のジョークに皆の顔がほころぶ。 「私はフセインといいます。よろしくお願いいたします。」
今回の日食の範囲は中欧から西アジアにかけてだが、完全な皆既日食を見るためには、いくつか条件がある。まず、月の陰が通過する皆既帯と呼ばれるエリアへ行かなくてはならない。次に、晴れる確率が高い場所かどうかも重要である。私達のツアーが向かうのは、イスタンブールから東に約400キロ離れた、黒海沿岸から少し内陸に入った山あいの街だ。皆既帯のほぼ中心線上にあり、内陸性の乾燥した気候。観測の条件にぴったりだ。街の名はカスタモヌ。バスでおよそ5時間の道のりを移動する。 バスは山をいくつも越えて走り続けた。だいぶ標高が上がったな、と感じた頃、フセインさんが話を始めた。 「このツアーは日食を見るツアーですね。だから特別なんです。これから行く街は観光地ではないです。田舎の街です。だから泊まるホテルもトルコ人たちが泊まるホテルです。私は10年ガイドの仕事をしていますが、カスタモヌへは行ったことがないです。だから日本人が好むホテルかどうか、実際に見ていないからわからないです。」 ふつうの田舎街のふつうのホテルに対し、ずいぶんと念入りな説明がなされたものだ。やはり日本人観光客の多くは高級ホテル指向なのだろうか、などと考えていると、フセインさんがフッと表情を曇らせた。 「みなさん、悪いお知らせがあります。」 「・・・・・?」 「荷物の事です。残念ながら、今日の便には乗っていなかった。」 「荷物はまだロンドンにあるんですか?」 誰かが尋ねたのに対し、添乗員さんが申し訳なさそうに答えた。 「航空会社に問い合わせているんですが、わからないという返事です。状況が分かり次第お伝えしますので。」
私達の荷物は世界の空で、迷子になってしまった。 はじめての日本人
カスタモヌという街は人口およそ5万人。鉄道は通っていない。なんと私達は、この街へ足を踏み入れた歴史上はじめての日本人だと言われた。 私達が行く先々に人が集まってくる。街を散歩していると、 「ジャポン、ジャポン」 と親しみを込めて声をかけられた。ニッコリと手をふって応える。 高校生と中学生くらいの二人の少女が、カメラ片手にかけ寄ってきた。どうやら 「写真を撮らせてくれませんか?」
午前4時。街頭スピーカーから流れるコーランの音で目を覚ました。窓を開けると外はまだ暗い。あちこちの家の窓に明かりがついている。あの中では人々が祈りをささげているのだろう。あらためてトルコはイスラム教国なのだと実感した。
さて、朝食まで時間がある。せっかくだから主なトルコ語を覚えようと、夫と二人、ガイドブックに書いてあるトルコ語の暗記に励んだ。 「おはようございますは、えーっと、ギュナユドゥンか、ギュナイドゥン?ギュウナードン? ・・・牛うな丼!」 こんなふうにして、だじゃれの要領で、つぎつぎに単語を語呂合わせしていった。
食堂へむかう途中、フロントの人と目があったので、私はドキドキしながら、おはようございます、と声をかけてみた。 「牛うな丼!」 すると、笑顔と挨拶がかえってきた。 「ギュナユドゥン。」 ああ、通じたんだ 私は嬉しくなった。
パンツを買いたいのですが
さて、毎日洗濯をしているとはいえ替えの下着がないのはつらい。そこで街で一番大きなスーパーマーケットへパンツを買いにでかけた。 衣類や布製品など生活必需品がそろう売り場をひととおり見てまわった。しかし、なぜかパンツは見つからない。夫が言う。 「イスラム教の国なんだから、日本と違って目につくところに下着なんか置かないんじゃないかな。」 なるほど、そうかもしれない。 だとすれば、いったいどこへ行けばいいのだろう。私たちは途方に暮れてしまった。 しかたなく帰り道をとぼとぼと歩いていると、あるドラッグストアの前で呼び止められた。 「ハイ!」 昨日、私達と写真を撮っていった少女だった。 このドラッグストアは彼女たちの両親が経営している店だという。しかもお店の場所が、私たちの宿泊先の斜め向かい。嬉しい偶然だ。二人がお茶を飲んでいかないかと誘ってくれたので、ありがたくお言葉に甘えることにした。旅のあいだ、すっかりおなじみになったチャイをごちそうになる。 話をしながら、私は手帳にパンツの絵を書いて、どこに売っているのかを尋ねてみた。すると彼女はわざわざ商店街の地図を書いて、丁寧に道順を教えてくれた。 見知らぬ街を、手書きの地図を頼りに歩く。そこには言われたとおりの店があった。
さて、さっそく買い物をしようとした私達だが、どうも上手くコミュニケーションがとれない。どうやら街の年輩の人には英語が通じないようなのだ。手帳に描いたパンツの絵を見せたり、コマネチ!みたいなジェスチャーをして「パンツを買いたい」と意思表示しているつもりなのだが、うまく伝わらず、ちぐはぐなやりとりが続く。 すると、どこからともなく人が集まって来て、 「私は英語ができる」 「自分はフランス語ができる」 「俺はドイツ語ができる」 と、口々に通訳を申し出てくれるではないか。ありがたい。 こうして私達は、街の人達の親切に助けられたおかげで、無事にパンツを買うことができた。困っている人がいたらなんとかして助けようとするトルコ人の国民性を、強く感じた出来事だった。
ありがとう
いつだったかフセインさんが、トルコ人は大変な親日家なのだと教えてくれた。 「同じアジア人でしょ。白人じゃない。でも日本は短い期間でたくさん経済成長した。トルコ人は日本をお手本にしたいんです。だから私達、日本人大好きです。」 あのボスポラス海峡に架かる橋は親日のシンボルなのだと教えてくれた。日本企業が全面的に援助をして架けてくれた橋だからと。当時、私は日本でそのような話を聞いたことがなかった※ので大変おどろいた。(1999年当時はまだネット情報がそれほど発達していなかったのだ) そういえばフセインさんは、街中をバスで移動しているとき「あの建物は日本のODAで建設されました」「あれも日本の援助で作られました」と、日本の会社名まで挙げて教えてくれた。 「トルコの人たち、日本のODAのことよく知ってます。だから私達、みんな日本人に感謝しています。」
ホテルに戻ろうと通りを歩きはじめると、あの少女が走ってきて、昨日撮ったばかりの例の写真をくれた。わざわざ写真を渡すために追いかけて来てくれたのだった。 「さんきゅう、さんきゅう。じゃなくて、えっと、テシェッキュル エデリム!(ありがとう)」 商店街を歩くと、街の人たちが次々に声をかけてきて「いまから家に来てチャイを飲んでいかないか」と誘ってくれる。店主らしき人までが仕事の手を止めて「店でチャイを飲んでいってください」と言うのだ。もちろん、商売につなげようなどといった下心は微塵もない。 残念ながら時間がなかったので丁寧にお断りせざるを得なかったのだが、純粋におもてなしをしたい、と次々に申し出てくれる姿には、嬉しさを通り越して感動をおぼえた。
こんなこともあった。商店街で一人の少年が私達を見るや否や、あわてて走り去ってしまったのだ。どうしたのだろう?と不思議に思っていると、今度は自転車に乗って猛スピードで追いかけてくるではないか。私達に追いついた少年は、肩でハァハァ息をしながら、
皆既日食当日のこと。朝、商店街を散歩をしていると、別の日食ツアーの外国人とすれちがった。手には紙製の日食メガネを持っている。「どこで手に入れたの?」とたずねると、観光案内所だという。私と夫はさっそく行ってみた。 観光案内所へ到着すると、フロアには数人の外国人がいた。みな私たちと同じように皆既日食を見に来た観光客らしい。私は職員の男性に「日食メガネが欲しいのですが」と伝えた。すると「すでに配付は終了し在庫はひとつもない」との返事。 (残念!遅かったか) 私たちが帰ろうとすると、応対してくれた職員が手招きしている。 (こちらへ来てください) そして、ほかの外国人からは見えない場所へ来ると、ポケットから小さな紙包みを出した。 「どうぞ。」 包みを開けると、中身はなんと日食メガネ。彼は自分用にとっておいた分をゆずってくれたのだ。 「そっそんな、申し訳ないから結構ですっ...」 とジェスチャーしたが、相手も「どうぞどうぞ」と譲らない。
・・・私はもう言葉がなかった。
「テシェッキュル エデリム!」
ありがとう。
それはトルコ滞在中、最も多く口にした言葉だ。
皆既日食ハイライト
朝、起きると荷物が届いていた。トルコに着いて5日目、添乗員さんの必死の努力が実ったのだ。あれから添乗員さんは食事も喉をとおらない様子で、気の毒なほどやつれてしまった。毎晩1時間おきに電話をかけていたそうで、睡眠もとっていないという。やっと笑顔が戻った添乗員さんに、夫はこう言った。 「荷物がこなかったおかげで思いがけなく買い物ができて、かえってトルコという国をよく知ることができました。」 このときばかりは、この人と結婚して良かった、とつくづく思った。 午前11時。さあ、いよいよ観測地に向けて出発だ。
別名「黒い太陽」とも言われる皆既日食。だが、その継続時間は短い。今回はわずか2分17秒だ。あえて言えば、この2分17秒を見るために、はるばる地球を半周してやってくるのだから、地元の人々や新聞記者が不思議に思うのも無理はないだろう。 まだ第1接触まで時間がある。今のうちにピンホールカメラをつくっておこう。紙に絵を描いて針で穴をあけていると、「何やってるんですか?」と同じツアーのメンバーが集まってきた。夫がピンホールカメラの説明をすると、あっというまに大流行 あちこちで穴あけ作業がはじまった。 12時58分、日食がはじまった。太陽が右上から欠け始める。はじめのうちは、お弁当を食べたり、おしゃべりをしながらハイキング気分を楽しんでいた我々だが、皆既の時間が近づくにしたがい、緊張が高まっていく。 14時05分、太陽が三日月のようになってきた。あたりはまだ明るい。ピンホールカメラで三日月型の光の像を確認。地面を見ると木の葉の間をぬけた木漏れ日まで三日月型になっている。 14時15分、どんどんやせていく太陽。涼しくなってひんやりと肌寒い。気温が下がっているのがわかる。 14時20分、ようやく、空が暗くなってきた。静かだ。ざわめきが消えている。鳥や昆虫たちも息をひそめているのだろうか。 14時23分、いよいよ太陽が隠れる。さあ、運命の一瞬だ。はじめての皆既日食。念願の皆既日食。心臓の音が自分で聞こえるくらいバクバク鳴っている。 「あっ、金星だ、金星見えたっ!」 「あーっ、ダイヤモンドリングだ。」 「すごい、すごい、あーっ、あーっ、あーーーーーっ!!!」 この瞬間、この感覚を、どう言えば伝えられるだろう。全身の毛穴が沸騰して蒸気が吹き出していく。 コロナが輝きを増す。あたりは夕焼け。 私達の頭上に、まぎれもない「黒い太陽」が輝いていた。
カスタモヌをあとにして
カスタモヌを発つ前にドラッグストアへ立ち寄り、例の写真をくれた二人の少女と再び会うことができた。名を、イリス、フィリスといい、二人は姉妹だった。 「プレゼント。」 フィリスがおみやげに「鳥の置き物」をくれた。 どうしよう、お返しにあげるものが何もない。私はメモ用紙を1枚もらって、その場で鶴を折った。 「ディス イズ ジャパニーズ トラディショナル ペーパー クラフト。」 その場にいる皆が、感心した面持ちで私の手つきを見ている。でき上がった鶴を店長に渡すと、なんとお店の一番目立つ場所に飾ってくれた。日本人なら子供のころから親しんでいる折り紙。あらためて日本の伝統文化の素晴らしさに気づいた。 日本から手紙を書く約束をし、二人の住所を教えてもらう。イリスが電子メールアドレスを持っていた。これは嬉しい。連絡がとりやすい。(※この当時はまだ今ほど普及していなかったのだ)
朝のカスタモヌ。いつもの通勤風景が繰り広げられている。街のいたるところで、できたてのパンを買い求める人々。ホテルでも朝食のパンがおいしくて、朝から何枚もおかわりしてしまったっけ。 指で味わったパンの感触を思い出す。しっとりときめが細かくて、赤ちゃんの肌のようにやわらかいパンは、小麦粉のよい香りがして、口にいれると太陽の味がするのだった。
このあと、私達はトルコの代表的な観光地を巡った。 首都アンカラ、カッパドキア、コンヤ、パム ッカレ、エフィス、そしてイスタンブール。 どの土地でも、出会ったトルコの人々はあいかわらず親切で、あたたかい。 目的だった皆既日食も素晴らしかったが、それ以上に人々の笑顔とやさしさが心に焼き付いた、感動に満ちたトルコの旅であった。
帰 国
朝の便でイスタンブールを飛び立った私達は、1999年8月17日、予定通りに帰国した。だが、この帰国の日は、生涯忘れられない日になってしまった。私達がトルコを発ったその夜に、恐ろしい大地震※がトルコ西部の地を襲ったのだ。(※イズミット地震 マグニチュード7.4) 心優しいトルコの人々、あんなに世話になったトルコの人々、どんなに苦しい思いでいることだろう。 トルコの夏の暑さは経験してきたばかりだ。人々の様子が目に浮かぶ。 熱くなった石に挟まれて、やけどをしていまいか、水が飲めないだろう、のどが乾いていまいか、苦しいだろう、なんとかがんばってくれまいか、なぜ、私はここにいて何もしてあげられないのだろうか。 本当は、今すぐにでもトルコに引き返して、この手で瓦礫の山をどかしてあげたい。だが、たとえ行かれたとして、食料も水も不足している街で素人の私に何ができるというのだろう。かえって彼等の水を奪ってしまうだけではないか。気持ちばかりが空回りする。なんという無力感。 そんな折、カスタモヌから電子メールが届いた。
私は生まれて初めて新聞に投書をした。 トルコは治安が悪いという情報が実際は違っていたこと、人々がどんなに親切で、私達がどれほど世話になったかを伝えたい一心で書いた文章は一週間後の紙面に掲載された。(文面はこちら) 「新聞を読んで、自分も義援金を送った。」 連絡をくれた知人達が口々にそう言ってくれたのを聞いて、ほんの少しだけ胸のつかえが取れた気がした。
トルコよふたたび
カスタモヌの姉妹とは、いまも時々便りを出しあっている。慣れない英語で、お互い文章はぎこちないけれど、温かい気持ちがいつもあふれている。イリスが書いていた。 「東京に行ってみたいな。日本に興味があるわ。」 私も返事を書いた。 「その時はぜひ、あなたの助けになれますように。」
あれから...。
イリスは結婚した。この次はきっと、かわいい赤ちゃんを抱いた写真が送られてくることだろう。妹のフィリスもそろそろお年ごろだ。 いつか再びトルコへ行こう。心優しいトルコの人々にもう一度会いたい。 もちろんイリスとフィリスにも。 車にゆられて、バスを乗り継いで、たくさん山を超えて、私達がはじめての日本人だった大好きな街カスタモヌで、いつかお互いの家族とともに再会できたら、と私は願っている。
トルコのおいしいお土産
ピシュマニエ pismaniye (コットンデライト) トルコの有名なお菓子。綿菓子をもっと骨太にしたような食感で、ほんのり甘〜い練乳のような味がします。薄茶色はココア、白はピスタチオの香り。
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